最近はSNSなどの普及で、何かミスがあれば多くの人の目に晒され、生きづらい世の中になった。SNSが原因なのかは不明であるが、必要以上に他人の目を気にして生きる人が増えているように感じる。

「これをしたら人に笑われるかな」

「こんなことしたら、人に馬鹿にされるわ」

「本当はこれをやりたいけど、あの人はどう思うだろう」

こんなふうに考える人が年々多くなっているように感じる。その結果、どこか世間全体が窮屈な感じになってしまっている。

「やりたいことをやろう!」

「生きたいように生きよう!」

という言葉は世間に溢れているが、そのような風潮とは真逆の世界に突入しようとしているような気がしてならない。

例えば、芸能人の不倫である。一昔前までは、SNSなどの媒体はなかったので、テレビニュースや新聞などに掲載されて終わりだった。今ではネットニュースにすっぱ抜かれ、SNSで拡散されてしまう。一般の人もコメントを通して、その芸能人の不倫について意見を述べることができる。不倫の内容がクソであればあるほど、コメント欄も盛り上がり、炎上する。

もちろん不倫は良くないことであるのは間違いない。ここでは不倫のことを述べたいのではない。人のミスや不祥事が拡散されてしまうことで、他人の目を必要以上に意識する風潮が出来上がってしまう。

結果、必要以上に他人を気にする人が増え、それを周りにも強要するような風潮が出来上がっているのではないか。

他人を意識すればするほど、生きづらくなる。どこか見えない鎖に繋がれているような感覚になり、常に自分に制限をかけて生きることになる。例えば、うるさいコーチが常に耳元で、『これは人になんて思われるからだめ』などなど四六時中アドバイスしてくるような状態である。そんな生き方を今後何十年間したいだろうか。

じゃあ、我らはどうすればいいのか。鍵は他人の目よりも、

”その選択に対して自分は納得できたのかどうか”

ということを常に心において生活すれば良いのではないか。

他人の目を意識すると、どうしても常に他人に軸がある状態になる。その軸を自分自身に戻してやるのだ。

「ここに行きたい!ここに行って、俺の心は納得するか?満足するか?」

と決断をする前に常に自分自身に対して問う。

そこで、「満足する!行きたい!」と心が言い返してきたら、他者がなんと言おうとやればいい。やった結果、結局うまくいかなかったとしても、他人の目を意識して出した決断よりも、100倍達成感がある。

他人の目を意識する人が多すぎて、他人に軸があることが”普通”になってしまっている。他人軸になると人生がどこか味気のないものとなってしまう。

先ほどの納得感を持って人生を歩むのと、追加で、

”自分自身を常に観察すること”

も是非とも習慣にしてほしい。

他人に軸がある人は、他人に軸があるということを自覚しにくい。

なので、決断をする際に、

「自分は今、他人に認められようとしていないかな?」

「他人を意識していないかな?」

と自分自身に問いかける。そして、少しでも、相手に認められたい気持ちがあれば、その思考を捨てる。

これを繰り返し行う。常にベクトルは自分の心に向けておく。

これを心がけることで、次第に自分軸で生きることができるようになる。結果、人生ってこんなに実は楽しかったんだと思えるような体験をすることができる。他人軸からの解放である。

もっともっと、自分自身の人生を生きよう。承認欲求なんてクソ食らえだ。