これをやっていれば良かったなあ。
あの時、あっちの方に行っていれば俺の人生もっと薔薇色だったのに。

少し前の僕はこんなことばっかり考えていた。でもふと思った。自分で決めているものって本当にあるのだろうか。と。

僕のエゴは言う。いやいやいや、自分の人生は全部俺の意志で決めてきたものやん。と。

進学する大学も、就職する職場も、結婚相手も、住む家もぜーんぶ決めてきたよ。とワンワン言ってくる。

しかし、それは本当なのか?

これら全部実は自分が選んだのではなくて、宇宙意志によって環境が整えられ、その選択肢を選ばされているとしたらみんなどう思うだろう。

例えば、進学する大学は、生まれた家庭の環境、住む地域の環境、本人の資質、周りの人の発言など、多種多様な環境が絡み合い、その中で「この大学に進学する!」と意思決定している。

これって本当に”自分で”決めているのだろうか。
もはや周りの環境によって”選ばされている”と言った方が正しいのではないだろうか?

じゃあこの周りの環境はどうやって作られているか?様々な偶然が積み重なり、環境は作られている。それこそ自分の意思以外の宇宙意思のようなもので、”自動で”環境が作られている。

自分たちはもはや、そんな宇宙の采配の中にある、操り人形のようなものだ。

「操り人形で、自分で人生を決めていないなら、何にも努力する必要はないし、面白くない人生だよな」

こうやって感じる人も中にはいるかもしれない。

しかし、”逆”なのだ。操り人形だからこそ、人生精一杯楽しめるし、悩む必要もない、問題を解決しようと躍起になる必要もない、最高の状態で生きることができるのだ。

全ては宇宙の采配で、自分の人生が成り立っている。だからこそ、冒頭の自分がしていた後悔は全く必要ないし、無意味なのだ。

後悔は、自分の選択について悩むものである。そう、自分の選択なんてない、全ては宇宙の采配だから、後悔すること自体がおかしいのだ。

例えるなら、映画のストーリーを見て、あそこのシーンをもっとこうした方が良かった。こうすれば良かったなどと一生懸命悩むようなものである。

そう、全ての物事は決まっているのだから、それについて悩むのは、意味がないのである。

問題解決も同じ。問題が発生しても、それについて、ああしよう、こうしようと自力で解決しようとするのをやめる。

問題は、宇宙の采配で起こっているもので、ありのままに過ごしていれば、自然と解決に向かうし、解決しないまでも、良い塩梅に状況は変わっていく。

だからこそ、問題が発生しても、取り乱したりするんではなく、なんとかなるさと、ただ安心して過ごしていけばいい。

自分の行動が必要なら、自分の行動が必要になるような状況に自然となっていき、そこで行動すればいいだけなのだ。

問題などのネガティブなことに関しては分かった。じゃあ人生楽しめるようになるっているのはどういうことなのか。

全ての動きが決まっており、自分で物事を決めていない。
そうなると、自分たちは、ただの自分の人生の傍観者でしかない。

それはつまり、「今」をみて、「今」を過ごすことしかできないということだ。

あれこれと選択するために、思考に意識を費やすのではなく、もっと目の前に現れる出来事に意識を集中すること。

自分で決めているものは何もない訳だから、もうそれしか自分たちにできることはないんだ。

だからこそ、「今」に100パーセントの意識を集中させる。「今」をただ観る。これが正しい過ごし方になる。

この「今」に集中して生きることは、喜びを倍増させる。なぜなら、思考が過去や未来に飛んでいないから。
最上の喜びを感じることができる。

さらに、悲しみや怒りでさえも、人生の喜びになっていく。

自分たちは、観測者でしかない。観測者とは、つまり観るもの。
人生で起こる全ての出来事をみて、喜びから悲しみの”感情”のコントラストを経験すること。

これが私たちが地球に産まれた目的なんだと思う。

だからこそ、目の前の出来事を大切にする。自分の感情を大切にする。
目の前に起こる出来事は、全て無駄じゃない。そして、そこで現れる感情も否定するのではなく、100パーセント受け入れる。そして思いっきり感じきる。

これこそが、本当に人生を楽しむってことなんだと思う。